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Hayao Miyazaki: The Master Who Dedicated His Life to Animation

宮崎駿みやざきはやお—アニメーションに捧ささげた人生じんせい

Script

English translation

Introduction: Hayao Miyazaki

宮崎駿みやざきはやお

この動画どうがでは、日本にほんを代表だいひょうする、宮崎みやざき駿はやおさんについて話はなしをします。

In this video, we will talk about Hayao Miyazaki, one of Japan’s leading animation directors.

宮崎みやざき駿はやおさんは、となりのトトロや千せんと千尋ちひろの神隠かみかくしなど、世界中せかいじゅうで知しられるアニメーション映画えいがを作つくってきました。

Hayao Miyazaki has created animated films known around the world, including My Neighbor Totoro and Spirited Away.

宮崎みやざき駿はやおさんの作品さくひんには、美うつくしい自然しぜんや、不思議ふしぎな生き物いきもの、空そらを飛とぶ場面ばめんがよく登場とうじょうします。

Beautiful nature, mysterious creatures, and scenes of flying through the sky often appear in Miyazaki’s works.

しかし、宮崎みやざき駿はやおさんは最初さいしょから有名ゆうめいな映画えいが監督かんとくだったわけではありません。

However, Miyazaki was not a famous film director from the beginning.

一人ひとりのアニメーターとして、たくさんの絵えを描えがく仕事しごとから始はじめました。そして長ながい時間じかんをかけて、自分じぶんだけのアニメーションの世界せかいを作つくっていきました。

He began as an animator whose job was to draw countless pictures. Over many years, he went on to create an animated world all his own.

宮崎みやざき駿はやおさんは、どのようにして世界せかい的てきな監督かんとくになったのでしょうか。

How did Hayao Miyazaki become a world-famous director?

そして、なぜ80歳さいを超こえても映画えいがを作つくり続つづけたのでしょうか。

And why did he continue making films even after turning eighty?

今回こんかいは、アニメーションにた宮崎みやざき駿はやおさんの人生じんせいを見みていきます。

This time, we will look at the life of Hayao Miyazaki, a man who devoted his life to animation.

A Boy Who Loved Drawing and Airplanes

絵えと飛行ひこう機きが好すきだった少年しょうねん

宮崎みやざき駿はやおさんは、1941年ねんに東京とうきょうで生うまれました。

Hayao Miyazaki was born in Tokyo in 1941.

当時とうじの日本にほんは、戦争せんそうをしていました。

At that time, Japan was at war.

宮崎みやざき駿はやおさんが小ちいさいころ、東京とうきょうは空そらから攻撃こうげきを受うけました。そのため、宮崎みやざき駿はやおさんは家族かぞくと一緒いっしょに東京とうきょうを離はなれたことがありました。

When Miyazaki was little, Tokyo was attacked from the air. Because of this, he once left Tokyo with his family.

子こどものころに戦争せんそうを経験けいけんしたことは、その後あとの宮崎みやざき駿はやおさんの作品さくひんに大おおきなました。

Experiencing war as a child had a major influence on Miyazaki’s later works.

宮崎みやざき駿はやおさんの映画えいがには、飛行ひこう機きや空そらを飛とぶ機械きかいがよく登場とうじょうします。

Airplanes and flying machines often appear in Miyazaki’s films.

空そらを飛とぶことは、自由じゆうで美うつくしいことに見みえます。しかし、飛行ひこう機きは戦争せんそうで人ひとを攻撃こうげきするためにも使つかわれます。

Flying looks free and beautiful. However, airplanes are also used to attack people in war.

そのため宮崎みやざき駿はやおさんの作品さくひんでは、空そらや飛行ひこう機きへのと、戦争せんそうへの悲かなしい気持きもちが、一緒いっしょに描えがかれることがあります。

For this reason, Miyazaki’s works sometimes portray both a longing for the sky and airplanes and a sadness about war.

子こどものころの宮崎みやざき駿はやおさんは、絵えや漫画まんがを描えがくことが好すきでした。特とくに、飛行ひこう機きや乗り物のりものの絵えを描えがくことが好すきでした。

As a child, Miyazaki loved drawing pictures and manga. He especially liked drawing airplanes and vehicles.

宮崎みやざき駿はやおさんの家族かぞくは、飛行ひこう機きの部品ぶひんを作つくる仕事しごとに関係かんけいしていました。そのため、飛行ひこう機きは宮崎みやざき駿はやおさんにとってなものでした。

Miyazaki’s family was involved in making airplane parts. Airplanes were therefore a familiar part of his life.

しかし、宮崎みやざき駿はやおさんは最初さいしょからアニメーション監督かんとくになろうと決きめていたわけではありません。

However, Miyazaki had not decided from the beginning to become an animation director.

大学だいがくでは政治せいじや経済けいざいについて学まなびましたが、絵えや物語ものがたりへの興味きょうみは無なくなりませんでした。

He studied politics and economics at university, but his interest in pictures and stories never faded.

大学だいがくを卒業そつぎょうした宮崎みやざき駿はやおさんは、アニメーションを作つくる会社かいしゃで働はたらくことを選えらびました。

After graduating from university, Miyazaki chose to work for a company that made animation.

ここから、宮崎みやざき駿はやおさんの長ながいアニメーション人生じんせいが始はじまりました。

This was the beginning of Miyazaki’s long life in animation.

From Animator to Director

アニメーターから監督かんとくへ

1963年ねん、宮崎みやざき駿はやおさんは東映とうえい動画どうがという会社かいしゃに入はいりました。

In 1963, Miyazaki joined a company called Toei Doga.

宮崎みやざき駿はやおさんは、最初さいしょから監督かんとくとして働はたらいたわけではありません。

Miyazaki did not work as a director from the start.

初はじめは、アニメーションの絵えを描えがくアニメーターとして働はたらきました。

At first, he worked as an animator drawing pictures for animation.

アニメーションでは、少すこしずつ形かたちが違ちがう絵えを何なん枚まいも描えがきます。その絵えを続つづけて見みせることで、人ひとや物ものが動うごいているように見みえます。

In animation, artists draw many pictures with slightly different shapes. Showing these pictures one after another makes people and objects appear to move.

一ひとつの短みじかい動うごきを作つくるためにも、たくさんの絵えが必要ひつようです。とても時間じかんがかかり、も必要ひつような仕事しごとでした。

Even one short movement requires many drawings. It was time-consuming work that also required great concentration.

宮崎みやざき駿はやおさんは、言いわれた通とおりに絵えを描えがくだけではありませんでした。

Miyazaki did more than simply draw what he was told to draw.

登場とうじょう人物じんぶつは、なぜこのように動うごくのか。物語ものがたりをもっとおもしろくするためには、何なにが必要ひつようなのか。

Why would a character move this way? What was needed to make the story more interesting?

宮崎みやざき駿はやおさんは、自分じぶんが担当たんとうする絵えだけではなく、作品さくひん全体ぜんたいについて考かんがえました。

Miyazaki thought not only about the drawings assigned to him, but about the work as a whole.

この会社かいしゃで、宮崎みやざき駿はやおさんはさんと出会であいました。

At this company, Miyazaki met Isao Takahata.

高畑たかはた勲いさおさんも、後あとに日本にほんを代表だいひょうするアニメーション監督かんとくになります。

Takahata would also later become one of Japan’s leading animation directors.

二人ふたりは、アニメーションでも、人間にんげんの気持きもちや社会しゃかいの問題もんだいを深ふかくことができると考かんがえていました。

The two believed that animation could deeply portray human emotions and social issues.

当時とうじ、アニメーションは子こどものためのものだと考かんがえる人ひとも多おおくいました。

At the time, many people thought animation was only for children.

しかし宮崎みやざき駿はやおさんと高畑たかはた勲いさおさんは、子こどもだけではなく、大人おとなも楽たのしめる作品さくひんを作つくろうとしました。

But Miyazaki and Takahata tried to create works that adults as well as children could enjoy.

宮崎みやざき駿はやおさんは多おおくの作品さくひんに参加さんかし、少すこしずつ重要じゅうような仕事しごとを任まかされるようになります。

Miyazaki took part in many productions and was gradually entrusted with more important work.

1978年ねんには、テレビアニメ、未来みらい少年しょうねんコナンの制作せいさくで、を担当たんとうしました。

In 1978, he played a central role in producing the television anime Future Boy Conan.

この作品さくひんには、自然しぜん、機械きかい、戦争せんそう、そして強つよく生いきる子こどもたちという、後あとの宮崎みやざき作品さくひんにつながるものが多おおく入はいっています。

The series contains many elements that would connect to Miyazaki’s later works: nature, machines, war, and children who live with strength.

1979年ねんには、ルパン三世さんせい カリオストロの城しろで、初はじめて映画えいが監督かんとくを務つとめました。

In 1979, he directed his first feature film, Lupin III: The Castle of Cagliostro.

現在げんざいでは多おおくの人ひとに愛あいされている映画えいがですが、された当時とうじは、すぐに大おおきな成功せいこうを収おさめたわけではありませんでした。

Today the film is loved by many people, but it was not an immediate major success when it was released.

それでも宮崎みやざき駿はやおさんは、自分じぶんが本当ほんとうに作つくりたい作品さくひんを作つくる機会きかいを探さがし続つづけました。

Even so, Miyazaki continued searching for opportunities to make the works he truly wanted to create.

His Own World and Studio Ghibli

自分じぶんの世界せかいとスタジオジブリ

宮崎みやざき駿はやおさんは、他ほかの人ひとが作つくった登場とうじょう人物じんぶつだけではなく、自分じぶんで考かんがえた世界せかいを映画えいがにしたいと思おもっていました。

Miyazaki wanted to make films not only with characters created by others, but also from worlds he imagined himself.

その思おもいから生うまれた重要じゅうような作品さくひんが、1984年ねんに公開こうかいされた、です。

An important work born from this desire was Nausicaä of the Valley of the Wind, released in 1984.

この作品さくひんには、自然しぜんと人間にんげんの関係かんけいや、戦争せんそうへのなど、宮崎みやざき駿はやおさんが長ながい間かん描えがき続つづけるテーマが入はいっています。

The film contains themes Miyazaki would continue exploring for many years, including the relationship between nature and humanity and opposition to war.

風かぜの谷たにのナウシカは多おおくの人ひとに見みられ、高たかく評価ひょうかされました。

Nausicaä of the Valley of the Wind was seen by many people and received high praise.

そして1985年ねん、宮崎みやざき駿はやおさんや高畑たかはた勲いさおさんたちは、を作つくりました。

Then, in 1985, Miyazaki, Takahata, and their colleagues founded Studio Ghibli.

スタジオジブリは、自分じぶんたちが本当ほんとうに作つくりたい映画えいがを作つくるための場所ばしょでした。

Studio Ghibli was a place where they could make the films they truly wanted to make.

しかし、アニメーション映画えいがを作つくるためには、多おおくのお金きんと時間じかんが必要ひつようです。新あたらしい映画えいがが成功せいこうするかどうかも分わかりません。

However, animated films require a great deal of money and time. There is also no guarantee that a new film will succeed.

それでも宮崎みやざき駿はやおさんたちは、自分じぶんたちがよいと思おもう作品さくひんを作つくり続つづけました。

Even so, Miyazaki and his colleagues continued making works they believed were good.

スタジオジブリの名前なまえを広ひろく知しられるようにした重要じゅうような作品さくひんの一ひとつが、1988年ねんのとなりのトトロです。

One important film that made the name Studio Ghibli widely known was 1988’s My Neighbor Totoro.

トトロは、後あとにスタジオジブリを代表だいひょうするキャラクターになります。

Totoro later became the character that represents Studio Ghibli.

宮崎みやざき駿はやおさんはその後あとも作品さくひんを作つくり続つづけ、1997年ねんにもののけ姫ひめを発表はっぴょうしました。

Miyazaki continued making films and released Princess Mononoke in 1997.

は、日本にほんで大おおきな成功せいこうを収おさめ、宮崎みやざき駿はやおさんとスタジオジブリは、さらに多おおくの人ひとに知しられるようになりました。

Princess Mononoke was a major success in Japan, and Miyazaki and Studio Ghibli became known to even more people.

Becoming a Director Known Around the World

世界せかいで知しられる監督かんとくになる

宮崎みやざき駿はやおさんを世界せかい的てきな監督かんとくにした最もっとも重要じゅうような作品さくひんの一ひとつが、2001年ねんのです。

One of the most important films in making Miyazaki a world-famous director was 2001’s Spirited Away.

この映画えいがには、神かみ様さまや温泉おんせん、古ふるい建物たてものなど、日本にほんの文化ぶんかを感かんじるものが多おおく登場とうじょうします。

The film features many things that evoke Japanese culture, including gods, hot springs, and old buildings.

宮崎みやざき駿はやおさんは、海外かいがいの人ひとに分わかりやすくするために、日本にほんらしいものを消けしませんでした。

Miyazaki did not remove distinctly Japanese elements to make the film easier for overseas audiences to understand.

それでも、映画えいがは世界中せかいじゅうの人々ひとびとの心こころに届とどきました。

Even so, the film touched the hearts of people around the world.

千せんと千尋ちひろの神隠かみかくしは、日本にほんで大おおきな成功せいこうを収おさめました。

Spirited Away was a major success in Japan.

さらに、ベルリン国際こくさい映画えいが祭さいで最高さいこう賞しょうをし、アメリカのアカデミー賞しょうでも長編ちょうへんアニメーション賞しょうを受賞じゅしょうしました。

It also won the top prize at the Berlin International Film Festival and the Academy Award for Best Animated Feature in the United States.

日本にほんで作つくられたアニメーション映画えいがが、世界せかいで高たかく評価ひょうかされたのです。

An animated film made in Japan had earned high praise around the world.

この成功せいこうによって、宮崎みやざき駿はやおさんとスタジオジブリの名前なまえは、世界中せかいじゅうで知しられるようになりました。

This success made the names of Hayao Miyazaki and Studio Ghibli known worldwide.

しかし宮崎みやざき駿はやおさんは、海外かいがいで賞しょうを取とるために映画えいがを作つくっていたわけではありません。

However, Miyazaki was not making films in order to win awards overseas.

自分じぶんが描えがきたい世界せかいを考かんがえ、それを一ひとつの作品さくひんにすることを大切たいせつにしていました。

He valued imagining the world he wanted to portray and shaping it into a single work.

宮崎みやざき駿はやおさんは作品さくひんを作つくるとき、人ひとが歩あるく様子ようすや、料理りょうりを作つくる手ての動うごき、風かぜで髪かみや服ふくが揺ゆれる様子ようすまで丁寧ていねいに描えがきました。

When creating a film, Miyazaki carefully drew even the way people walk, the movements of hands preparing food, and hair and clothes swaying in the wind.

このような普通ふつうの動うごきがあることで、登場とうじょう人物じんぶつが本当ほんとうにその世界せかいで生活せいかつしているように見みえます。

These ordinary movements make the characters appear to truly live in that world.

監督かんとくになった後あとも、宮崎みやざき駿はやおさんは自分じぶんで多おおくの絵えを描えがきました。

Even after becoming a director, Miyazaki drew many pictures himself.

細こまかい部分ぶぶんまで確認かくにんし、自分じぶんが納得なっとくできる作品さくひんを作つくろうとしました。

He checked even the smallest details and tried to create works that satisfied him.

宮崎みやざき駿はやおさんにとってアニメーションは、絵えを動うごかすだけの仕事しごとではありません。

For Miyazaki, animation was not simply the work of making drawings move.

存在そんざいしない世界せかいに、本当ほんとうに命いのちがあるように見みせる仕事しごとだったのです。

It was the work of making a world that did not exist appear truly alive.

The Wind Rises and Retirement

風かぜ立たちぬと引退いんたい

2013年ねん、宮崎みやざき駿はやおさんは、風かぜ立たちぬを発表はっぴょうしました。

In 2013, Miyazaki released The Wind Rises.

この作品さくひんは、宮崎みやざき駿はやおさんの人生じんせいを考かんがえるうえで重要じゅうような映画えいがです。

This is an important film for understanding Miyazaki’s life.

宮崎みやざき駿はやおさんが子こどものころから好すきだった飛行ひこう機き。

Airplanes, which Miyazaki had loved since childhood.

そして、宮崎みやざき駿はやおさんが強つよく反対はんたいしてきた戦争せんそう。

And war, which Miyazaki had strongly opposed.

この二ふたつが、一ひとつの作品さくひんの中なかで描えがかれました。

These two things were portrayed together in a single film.

この映画えいがの公開こうかい後あと、宮崎みやざき駿はやおさんはを作つくる仕事しごとからすると発表はっぴょうしました。

After the film was released, Miyazaki announced that he would retire from making feature films.

宮崎みやざき駿はやおさんはすでに70歳さいを超こえていました。

Miyazaki was already over seventy years old.

長編ちょうへんアニメーション映画えいがを作つくるためには、多おおくの時間じかんと体力たいりょくが必要ひつようです。

Making a feature-length animated film requires a great deal of time and physical strength.

そのため、多おおくの人ひとは風かぜ立たちぬが宮崎みやざき駿はやおさんの最後さいごの長編ちょうへん映画えいがになると考かんがえました。

For this reason, many people thought The Wind Rises would be Miyazaki’s final feature film.

しかし宮崎みやざき駿はやおさんは、アニメーションを作つくることを止やめませんでした。

However, Miyazaki did not stop creating animation.

短みじかいアニメーションを作つくったり、絵えを描えがいたりしながら、仕事しごとを続つづけました。

He continued working, making short animations and drawing pictures.

そして再ふたたび、長編ちょうへん映画えいがを作つくりたいと考かんがえるようになります。

Then he began to want to make another feature film.

Completing Another Feature Film

再ふたたび完成かんせいさせた長編ちょうへん映画えいが

一度いちどは引退いんたいを発表はっぴょうした宮崎みやざき駿はやおさんでしたが、再ふたたび新あたらしい映画えいがの制作せいさくを始はじめました。

Although he had once announced his retirement, Miyazaki began producing a new film.

その作品さくひんが、2023年ねんに公開こうかいされた、です。

That film was The Boy and the Heron, released in 2023.

この作品さくひんは、宮崎みやざき駿はやおさんがになってから完成かんせいさせた、特とくに重要じゅうような映画えいがです。

It is an especially important film that Miyazaki completed late in his life.

映画えいがには、戦争せんそうの時代じだいや家族かぞくとの別わかれなど、宮崎みやざき駿はやおさん自身じしんの人生じんせいを感かんじさせるものも入はいっています。

The film also contains elements reminiscent of Miyazaki’s own life, including the wartime era and separation from family.

この作品さくひんを完成かんせいさせるために、宮崎みやざき駿はやおさんとスタジオジブリのスタッフは長ながい時間じかんをかけました。

Miyazaki and the staff of Studio Ghibli spent many years completing the film.

宮崎みやざき駿はやおさんは80歳さいを超こえていましたが、それでも机つくえに向むかい、作品さくひん作づくりを続つづけました。

Miyazaki was over eighty, but he still sat at his desk and continued creating.

君きみたちはどう生いきるかは、2024年ねんのアカデミー賞しょうで長編ちょうへんアニメーション賞しょうを受賞じゅしょうしました。

The Boy and the Heron won the Academy Award for Best Animated Feature in 2024.

宮崎みやざき駿はやおさんにとって、二に度ど目めの受賞じゅしょうでした。

It was Miyazaki’s second win.

一度いちどは引退いんたいを発表はっぴょうした監督かんとくが、もう一度いちど長編ちょうへん映画えいがを完成かんせいさせ、再ふたたび世界せかいでされたのです。

A director who had once announced his retirement completed another feature film and was once again highly praised around the world.

A Life Devoted to Animation

アニメーションに捧ささげた人生じんせい

宮崎みやざき駿はやおさんは、なぜ何なん度ども映画えいが作づくりに戻もどったのでしょうか。

Why did Miyazaki return to filmmaking again and again?

宮崎みやざき駿はやおさんにとって、アニメーションはただの仕事しごとではなかったのかもしれません。

For Miyazaki, perhaps animation was more than simply a job.

宮崎みやざき駿はやおさんの作品さくひんには、戦争せんそうへの悲かなしい気持きもちや、自然しぜんが失うしなわれていくことへの心配しんぱいが描えがかれています。

His works portray sadness about war and concern about the loss of nature.

、大変たいへんな状況じょうきょうでも、前まえへ進すすもうとする人々ひとびとの姿すがたも描えがかれています。

At the same time, they also portray people trying to move forward even in difficult circumstances.

宮崎みやざき作品さくひんの主人しゅじん公こうたちは、すべての問題もんだいを一人ひとりで解決かいけつするわけではありません。

The heroes of Miyazaki’s works do not solve every problem by themselves.

怖こわがったり、失敗しっぱいしたりしながら、それでも自分じぶんにできることを続つづけます。

They feel afraid and make mistakes, yet they continue doing what they can.

宮崎みやざき駿はやおさんはアニメーションを通とおして、自分じぶんが見みてきたものや、考かんがえてきたことをへ伝つたえようとしたのでしょう。

Through animation, Miyazaki may have been trying to pass on what he had seen and thought to the next generation.

世界せかいには、怖こわいことや悲かなしいことがあります。

There are frightening and sad things in the world.

しかし、美うつくしい自然しぜんや、人ひとと人ひとが助け合たすけあうこともあります。

But there is also beautiful nature, and people help one another.

宮崎みやざき駿はやおさんは、長ながい時間じかんをかけて、そのような世界せかいを映画えいがの中なかに描えがき続つづけました。

Over many years, Miyazaki continued portraying such a world in his films.

Summary

この動画どうがのまとめ

宮崎みやざき駿はやおさんは、最初さいしょから世界せかい的てきな映画えいが監督かんとくだったわけではありません。

Hayao Miyazaki was not a world-famous film director from the beginning.

アニメーション会社かいしゃの一人ひとりの社員しゃいんとして、何なん枚まいもの絵えを描えがくことから始はじめました。

He began as an employee at an animation company, drawing picture after picture.

そして高畑たかはた勲いさおさんなどの仲間なかまと出会であい、自分じぶんが本当ほんとうに作つくりたい世界せかいを少すこしずつしていきました。

He met colleagues such as Isao Takahata and gradually gave shape to the world he truly wanted to create.

宮崎みやざき駿はやおさんの作品さくひんには、空そらへの憧あこがれ、美うつくしい自然しぜん、戦争せんそうへの思おもい、そして未来みらいを生いきる人々ひとびとへの希望きぼうが描えがかれています。

Miyazaki’s works portray a longing for the sky, beautiful nature, thoughts about war, and hope for those who will live in the future.

世界せかい的てきに有名ゆうめいになり、多おおくの賞しょうを受賞じゅしょうした後あとも、宮崎みやざき駿はやおさんは作品さくひんを作つくり続つづけました。

Even after becoming world-famous and winning many awards, Miyazaki continued creating.

宮崎みやざき駿はやおさんが作つくった物語ものがたりは、これからも世界中せかいじゅうの人々ひとびとに見みられ、新あたらしい世代せだいへがれていくでしょう。

The stories Miyazaki created will continue to be watched around the world and passed on to new generations.